足利義持・足利義量
足利義持は室町幕府4代将軍である。
父は足利義満、母は安芸法眼の娘藤原慶子。
兄弟に足利義教、足利義嗣ほか。
正室は日野資康の娘日野栄子。
子は足利義量。
義満との父子関係は険悪であったとされ、1394年に9歳で義満より将軍職を譲られるが、太政大臣となった義満の在世中は実権がなかった。
幕府の評定も義満の居住する北山第で開催されて義持が参画する事はなかった。
1406年には側近の山科兄弟の事で叱責された記録が残っており、1408年、義満死去直前に後小松天皇が「北山第」に御成した際も、義満が寵愛した異母弟の義嗣は天皇に謁見したが、義持自身は京都警備番をさせられる等、偏愛にも苦しんでいたようである。
1408年の義満死後は一時的に花の御所に住むが、翌年には2代将軍足利義詮の住んでいた三条坊門邸へ移っている。
また、義満が造成した政務中枢「北山第」は鹿苑寺をのぞいて全て取り壊した。
父は足利義満、母は安芸法眼の娘藤原慶子。
兄弟に足利義教、足利義嗣ほか。
正室は日野資康の娘日野栄子。
子は足利義量。
義満との父子関係は険悪であったとされ、1394年に9歳で義満より将軍職を譲られるが、太政大臣となった義満の在世中は実権がなかった。
幕府の評定も義満の居住する北山第で開催されて義持が参画する事はなかった。
1406年には側近の山科兄弟の事で叱責された記録が残っており、1408年、義満死去直前に後小松天皇が「北山第」に御成した際も、義満が寵愛した異母弟の義嗣は天皇に謁見したが、義持自身は京都警備番をさせられる等、偏愛にも苦しんでいたようである。
1408年の義満死後は一時的に花の御所に住むが、翌年には2代将軍足利義詮の住んでいた三条坊門邸へ移っている。
また、義満が造成した政務中枢「北山第」は鹿苑寺をのぞいて全て取り壊した。
update:2010年03月10日
